ジョグジャカルタ街に下りてきて帰国までのあいだ、主にインドネシアの建築家/詩人/牧師Mangunwijya(マングンウィジャヤ,1929~99)のことを調べている。彼はインドネシア独立戦争に関わった後に神学を学び、ドイツで建築を学んだ。彼の有名なプロジェクトはジョグジャカルタのスラム街、Kampong Kali Cho-deのコミュニティ建築プロジェクトだ。













1985年に始まったこのプロジェクトは、Cho-de川沿いに約2万人が住んでいたスラム街の一画で、当時行政から立ち退き勧告を受けていた不法占拠のKampong Kali Cho-de(世帯数約35世帯)に彼自身が住み込んで、住人たちと一緒に住宅や集会場を作り上げ、地方政府の立ち退きを追い返したという逸話を持つ。住民たちの多くは「Sampah Sasyarakat(社会の逸脱者)」と呼ばれ、犯罪や暴力のイメージと重ねられていたが、実際は近郊の農村部から移り住む貧しい労働者たちの家族であり、多くは廃品回収、屋台、リキシャの運転に従事していた。
この地区の人びとの生活環境の改善をKampong地区の長であったWilli Prasetya(ウィリプラセトヤ)が提唱し、彼がマングンウィジャヤに住環境の改善案を依頼したことでこのプロジェクトはスタートした。当時、貧困層への援助活動は共産主義と同一視される恐れがあり、慎重に手続きを踏む必要があったという。1985年に地方政府はこの地区の取り壊しを命じたが、マングンウィジャヤはこの命令を撤回するように懇願する。これがメディアによって誇張され、彼がハンガーストライキを決行するとまで報じられ、結果的には命令の撤回には至らなかったが、延期となった。
プランは、すでに存在していたいくつかの住居の周囲に、居住者たちがそこそこの地形に合わせて自発的に住居を配置、建設していく形で進められマスタープランはなかったという。ただ、中心となるコミュニティスペース「Brotherhood of Neighbors」 の位置取りは前もって計画されていた。今では、礼拝堂やコミュニティ図書館も併設されてある。技術的な面は建築家が指導したが、実際の作業は住民自身の手によるものだった。住居の素材は主に竹とココナッツの木、基礎はコンクリートもしくは石垣。床面は竹マット。屋根はテラコッタ瓦、もしくは鉄製。1985年当時の写真を見ると、今よりも住居の数は少なく、壁面にはより色鮮やかで繊細な壁画が描かれている。このプロジェクトは、スラム街の住環境改善という側面とともに、コミュニティ内での恊働を通じた住民自身のセルフエンパワーメントという意味合いも強かったという。
ジョグジャカルタ市、ガジュマダ大学の近くにある彼の自宅は、今ではオルタナティブ教育のNGOセンターになっている。室内は精巧な家具が折り重なって出来たかのような内部空間で、小さな階段でいくつもの部 屋が繋がっている。音楽の中を歩いているような気分になる。2階の通路にはガラスの旋回窓が一列に並び、その上に木枠にガラスのショーケースが取り付けられていて、小さなオブジェや記念メダルの向こうにある外の景色が室内に入り込んでくる。木製の階段を上がると、竹床の渡り廊下、天井は竹を細く並べた格子状の枠が貼付けられ涼しげな表情を演出している。この内部と外部のあいまいな境界は、熱帯の気候だからこそ可能だが、このあいまいな境界を切り分け、そして再度接続させるテクニックは家具職人や指物師の仕事を彷彿とさせる。とにかく繊細かつ複雑な空間。スハルト政権時代はここで民主化運動を求める学生達の秘密の集会所になっていたとアンタリクサが後で説明してくれた。















日本では、彼の小説「嵐の中のマニャール」や「香料諸島綺談」などで知られているが、建築家/民主活動家としての経歴はどれほど知られているのかは僕にはわからない。彼の著作「Wastu Citra」はインドネシアで建築を学ぶ学生のバイブルとのことだが、インドネシアでも身入りの良い職業のひとつである建築業で彼のような道を選ぼうとする人たちは少数だという。下の写真は、ジョグジャカルタから離れバイクで一時間東に向かった小さな町Klatenにあるマングウィジャヤの初期の教会建築「Santa Maria Assumpta Catholic Church」。
より詳しく知ろうとすると、どうしてもインドネシア語の壁が立ちはだかるけれど、社会運動と建築、ボトムアップからのコミュニティ建築を30年前から実践して、なおかつ詩人、小説家、教育家でもあったマングンウィジャヤ。彼の多才の活動について、これから少しずつ調べていきたいと思う。