孤立すること

「3.12の思想」の矢部史郎さんのブログ「原子力都市と海賊」の投稿の中の一節にハッとさせられた。

以下引用

『そもそもアートが人々に教えるのは、「みんながひとつになる」みたいな学校くさい話ではない。アートが教えるのは、「誰もがひとりになることができる」という孤立の技法である。人々がアーティストに敬意を示すのは、彼がただひとりの者として力を表現するからだ。いまアーティストが言うべきは、「みんなひとつになろうよ」ではなく、「たったひとりになれ」だ。孤立することは無力になることだというのは、学校が教える迷信だ。現実はその反対に動いている。孤立は力の源泉である。』

3.12の東京電力福島原子力発電所の過酷事故の後、私たちは政府に、東電を含む原子力資本主義によって被爆させられ、核汚染の世界のただ中に破棄され続けてきた。あの日、日本人という単一のアイデンティティと日本社会という巨大な想像上の村落共同体から不可避的に身を引きはがされ、「日本人でない者」になること、日本社会から逸脱してゆく事態に直面したのだ。この決定的な状況の変化を直視した人々は、これまでの社会的諸関係を一度ご破算にしたところで、「つなみでんでんこ」のようにそれぞれがおのおのの方向にてんでバラバラ、分子状に散らばり(あるいは原子的孤独を引き受けつつ)「避難民」へと生成変化していった。

ここには一度、これまでの社会的諸関係から切り離されるという断絶の経験がいやおうなしに引き受けることが要請される。そして、この断絶から生まれる「孤独/たったひとりになること」にこそ、既存の社会とそれを支えて来た諸価値の崩壊の中に、積極的な別の生の再組織化の契機、つまり放射能戦時下での生の様態の集団的再創造が可能性として立ち現れてくる。

私たちの生の再組織化の可能性は、この「たったひとりになれ」という声を本当に個々人が受け止めきれるのかどうかにある。たった一人になること、崩壊してゆく国家、社会あるいは家庭までをも見捨て、逃げ去ること。それは卑怯や臆病の技ではなく、危機の中で発せられる個々の生の声に個々が正直であるかどうかにかかっている。だからこそ既存の権力構造は大丈夫、元通りに戻ろう、一つになろうという集団催眠の言語を多用する。

アートもまたそのように動員されうる。復興の名の下に人集めのプロパガンダとして、作り手の意図を越えて(というかそのような批判的意識が皆無のまま利用されるかたちで)「何も無かった」という集団催眠的な効果を求められている。孤立、孤独、断絶の中から思考され、実践されてゆくもの。それは今の現実の動きと同期している。周囲の理解や共感を得ないまま黙々と行われている文化的、社会的諸実践の中に創造の芽が胚胎されている。それは、孤独のただ中に飛び込む、避難/移住を通じた剥奪の感覚に身をさらすことで初めて見えてくるはずだ。

一地方都市、福岡での孤立を、東京とは別の方法で創造の力を養う契機へと転換させなければならない。