モノの記憶

今日、親方の話をアンタリクサに通訳してもらって判ったのだけれど、最初に作った小さな椅子は作業用の椅子というよりも、10年前に親方が自分の子 どものために作った椅子だったらしい。その子は5年くらいこの椅子を使っていて、大きくなったので今は木工所で使われているということ。親方が自分の子ど ものために作った椅子だったと聞くと、このコピーした椅子もまた違った表情を帯びてくる。ムント村の一つの木工所の家族史がオブジェに入り込んでくるから だ。おそらくこのような手作り、即興の家具たちには、そこそこの家族史や暮らしの物語が不可分に備わっているのだろう。

僕はふと、イギリス、ロンドンのエコビレッジでアナキストの若者が壊れた化粧台で簡易トイレを作っていた時のことを思い出した。彼は捨ててあった化粧台に 穴を明け、便座を取付て、一日がかりで新しいトイレを作ってしまったのだ。そして、このへんてこりんな家具/トイレについて皆が話題にするとき、全員がこ のトイレを作った彼の名前とその経緯を口にしていた。そのようにして、あるオブジェが作り出され、使用されると同時に、コミュニティの集合的記憶に定着されていったのだ。

そこには、商品の疎外された生産関係とは異なるモノと人、社会の「交通形態(マルクス:ドイツ•イデオロギー)」が内包されているように思う。商品にはロ ゴやブランドが貼られるが、基本的に生産者や作り手自身の個人的な形跡は抹消される(もちろん、それらをあえて表記するブランド手法もあるが、基本的には 金銭を介して交換されることが商品の性格を決定づけているので)。その一方で、これらの即席の家具たちは、ロゴやブランドこそ貼られていないし、市場にも 流通していないが、それらが生み出された時からの(生産と消費/使用が市場によって完全に断絶していないかたちでの)オーラルヒストリーや記憶に彩られて いる。モノの固有の記憶や物語は往々にして見えなくなるが、このようなコピー/再現の手法を通じて、モノを巡る人間の物語、記憶、経験を別の視角から探る ことができるかもしれない、と思った。