インドネシアのインディーズミュージックレーベル「YESNOWAVE」

ジョグジャカルタで滞在先のリサーチセンターKUNCIに住んでいるWoWoは、90年代後半から自分の音楽レーベルを立ち上げている。最初はガレージでのカセットの販売からスタートして、今はオンライン上のレーベルサイト「YESNOWAVE」を運営している。

「YESNOWAVE」→ http://yesnowave.com/

このサイトではインドネシア各地のインディーズ音楽、ミュージシャンたちの作品が無料でダウンロードできる。

YesNoWave主催のWowo氏 見た目は怖いけれど、おちゃめな性格+お腹の持ち主。「ファツキュー」が口癖。得意技は踊っていると見せかけて周囲にパンチすること。

YesNoWave主催のWowo氏 見た目は怖いけれど、おちゃめな性格+お腹の持ち主。「ファツキュー」が口癖。得意技は踊っていると見せかけて周囲にパンチすること。

僕「え、全部無料なの?」

Wowo 「そう、全部無料。CDが売れる時代じゃもうないし、メジャーな音楽産業とはまったく違うところでインディーズの音楽家たちを支援するレーベルだから、彼らの活動を世に知らしめるのが目的。音楽を聞いてもらわないと、誰がどんな音楽を作っているのかすら伝わらない。だからまず無料でみんなに聞いてもらえるようにしているのさ。」

僕「じゃあ、どこからレコーディングの経費は出てるの?」

Wowo「みんな仕事をしながら音楽をしているから生活のお金はそこから。レコーディングやCD製作の経費はmerchandises(商品)から現金収入を得れるようにしている。まあ、各バンドのTシャツヤパーカー、グッズを作るようにしているということさ。この国ではもしそのミュージシャンのファンになれば、みんなTシャツを買うからね。CDの値段よりも高くても売れるんだ。」

なので、「YESNOWAVE」はオンラインショップも併設している。

「YESNOSHOP」http://yesnoshop.net/

オンラインショップもあります。海外への配送も可能とのこと(がんばれば)。

オンラインショップもあります。海外への配送も可能とのこと(がんばれば)。

すごい形相ですが優しく説明してくれています。

すごい形相ですが優しく説明してくれています。

CDは売れない。となると、売れないものを無理して売るのではなく、まず聴いてもらいたい音楽そのものを無償で聞き手のところに届ける。なによりこれまで届かなかった層に「届ける」ということ彼は重視している。なので、日本にいながらもインドネシアのインディーズ音楽が無償で聴けるし、楽しめる。これはすごい。

過去の有名なミュージシャン達の曲はYoutubeでも聴けるけれど、同時代に南洋の島でインディーズ音楽で活動しているやつらの音を無償で聴く事ができる時代。南からやって来た贈与の連鎖とでもいうべきか。もしお気に入りのバンドやミュージシャンを見つけたら、また他の人とシェアしたり、ファンになってみると日本とインドネシアの距離感が近くなって楽しいはず。

 

 

 

Romo Mangunwijaya/ インドネシア近代建築の父 マングンウィジャヤ

ジョグジャカルタ街に下りてきて帰国までのあいだ、主にインドネシアの建築家/詩人/牧師Mangunwijya(マングンウィジャヤ,1929~99)のことを調べている。彼はインドネシア独立戦争に関わった後に神学を学び、ドイツで建築を学んだ。彼の有名なプロジェクトはジョグジャカルタのスラム街、Kampong Kali Cho-deのコミュニティ建築プロジェクトだ。

1985年に始まったこのプロジェクトは、Cho-de川沿いに約2万人が住んでいたスラム街の一画で、当時行政から立ち退き勧告を受けていた不法占拠のKampong Kali Cho-de(世帯数約35世帯)に彼自身が住み込んで、住人たちと一緒に住宅や集会場を作り上げ、地方政府の立ち退きを追い返したという逸話を持つ。住民たちの多くは「Sampah Sasyarakat(社会の逸脱者)」と呼ばれ、犯罪や暴力のイメージと重ねられていたが、実際は近郊の農村部から移り住む貧しい労働者たちの家族であり、多くは廃品回収、屋台、リキシャの運転に従事していた。

この地区の人びとの生活環境の改善をKampong地区の長であったWilli Prasetya(ウィリプラセトヤ)が提唱し、彼がマングンウィジャヤに住環境の改善案を依頼したことでこのプロジェクトはスタートした。当時、貧困層への援助活動は共産主義と同一視される恐れがあり、慎重に手続きを踏む必要があったという。1985年に地方政府はこの地区の取り壊しを命じたが、マングンウィジャヤはこの命令を撤回するように懇願する。これがメディアによって誇張され、彼がハンガーストライキを決行するとまで報じられ、結果的には命令の撤回には至らなかったが、延期となった。

プランは、すでに存在していたいくつかの住居の周囲に、居住者たちがそこそこの地形に合わせて自発的に住居を配置、建設していく形で進められマスタープランはなかったという。ただ、中心となるコミュニティスペース「Brotherhood of Neighbors」 の位置取りは前もって計画されていた。今では、礼拝堂やコミュニティ図書館も併設されてある。技術的な面は建築家が指導したが、実際の作業は住民自身の手によるものだった。住居の素材は主に竹とココナッツの木、基礎はコンクリートもしくは石垣。床面は竹マット。屋根はテラコッタ瓦、もしくは鉄製。1985年当時の写真を見ると、今よりも住居の数は少なく、壁面にはより色鮮やかで繊細な壁画が描かれている。このプロジェクトは、スラム街の住環境改善という側面とともに、コミュニティ内での恊働を通じた住民自身のセルフエンパワーメントという意味合いも強かったという。

ジョグジャカルタ市、ガジュマダ大学の近くにある彼の自宅は、今ではオルタナティブ教育のNGOセンターになっている。室内は精巧な家具が折り重なって出来たかのような内部空間で、小さな階段でいくつもの部 屋が繋がっている。音楽の中を歩いているような気分になる。2階の通路にはガラスの旋回窓が一列に並び、その上に木枠にガラスのショーケースが取り付けられていて、小さなオブジェや記念メダルの向こうにある外の景色が室内に入り込んでくる。木製の階段を上がると、竹床の渡り廊下、天井は竹を細く並べた格子状の枠が貼付けられ涼しげな表情を演出している。この内部と外部のあいまいな境界は、熱帯の気候だからこそ可能だが、このあいまいな境界を切り分け、そして再度接続させるテクニックは家具職人や指物師の仕事を彷彿とさせる。とにかく繊細かつ複雑な空間。スハルト政権時代はここで民主化運動を求める学生達の秘密の集会所になっていたとアンタリクサが後で説明してくれた。

日本では、彼の小説「嵐の中のマニャール」や「香料諸島綺談」などで知られているが、建築家/民主活動家としての経歴はどれほど知られているのかは僕にはわからない。彼の著作「Wastu Citra」はインドネシアで建築を学ぶ学生のバイブルとのことだが、インドネシアでも身入りの良い職業のひとつである建築業で彼のような道を選ぼうとする人たちは少数だという。下の写真は、ジョグジャカルタから離れバイクで一時間東に向かった小さな町Klatenにあるマングウィジャヤの初期の教会建築「Santa Maria Assumpta Catholic Church」。

より詳しく知ろうとすると、どうしてもインドネシア語の壁が立ちはだかるけれど、社会運動と建築、ボトムアップからのコミュニティ建築を30年前から実践して、なおかつ詩人、小説家、教育家でもあったマングンウィジャヤ。彼の多才の活動について、これから少しずつ調べていきたいと思う。

Night Cruising

夜、ジョグジャカルタ郊外の県道を走っているとぽつりぽつりと小さな個人商店や屋台がならんでいる。街に近づくとその間隔が狭まってくるが、街と田舎のあいだのロードサイド日本のようなチェーン店ばかりのファスト化した風景はまだ少なく(それでも大きな幹線道路には結構チェーン店が増えている)、このような小さな店や屋台が暗闇の流れのところどころに小さな光を放っている。店先では店員がぼんやりと座っていたり、スマホをいじっていたり。そして、これらの小さな光に吸い寄せられるように仕事帰りのお客たちがバイクを横付けして立ち寄ってはまた去って行く。

シリーズ 椅子編 01/"The Street Crafts" Chairs 01

ジョグジャカルタ、旧市街の路上で見つけた椅子たち。幅2メートルほどの道路にそって平屋が並ぶ。城壁の内側なので小さな箱庭みたいな居住空間が、王宮前広場を中心に格子状に広がっている。道は小さな庭や居間、洗濯物干場や遊び場、キッチンだったりする。そしてそこにはありあわせの素材をつぎはぎして作られた椅子やベンチが置かれている。広告バナーをカバーに使っていたり、2つの壊れた椅子を継ぎ足していたり。モノそのもの、というよりも限られた材料でどうにかやりくりしながら用を満たそうとしている人たちのアイデアと手の動きが椅子やベンチというオブジェに「行為の痕跡」として刻み込まれているように思う。

モノの記憶

今日、親方の話をアンタリクサに通訳してもらって判ったのだけれど、最初に作った小さな椅子は作業用の椅子というよりも、10年前に親方が自分の子 どものために作った椅子だったらしい。その子は5年くらいこの椅子を使っていて、大きくなったので今は木工所で使われているということ。親方が自分の子ど ものために作った椅子だったと聞くと、このコピーした椅子もまた違った表情を帯びてくる。ムント村の一つの木工所の家族史がオブジェに入り込んでくるから だ。おそらくこのような手作り、即興の家具たちには、そこそこの家族史や暮らしの物語が不可分に備わっているのだろう。

僕はふと、イギリス、ロンドンのエコビレッジでアナキストの若者が壊れた化粧台で簡易トイレを作っていた時のことを思い出した。彼は捨ててあった化粧台に 穴を明け、便座を取付て、一日がかりで新しいトイレを作ってしまったのだ。そして、このへんてこりんな家具/トイレについて皆が話題にするとき、全員がこ のトイレを作った彼の名前とその経緯を口にしていた。そのようにして、あるオブジェが作り出され、使用されると同時に、コミュニティの集合的記憶に定着されていったのだ。

そこには、商品の疎外された生産関係とは異なるモノと人、社会の「交通形態(マルクス:ドイツ•イデオロギー)」が内包されているように思う。商品にはロ ゴやブランドが貼られるが、基本的に生産者や作り手自身の個人的な形跡は抹消される(もちろん、それらをあえて表記するブランド手法もあるが、基本的には 金銭を介して交換されることが商品の性格を決定づけているので)。その一方で、これらの即席の家具たちは、ロゴやブランドこそ貼られていないし、市場にも 流通していないが、それらが生み出された時からの(生産と消費/使用が市場によって完全に断絶していないかたちでの)オーラルヒストリーや記憶に彩られて いる。モノの固有の記憶や物語は往々にして見えなくなるが、このようなコピー/再現の手法を通じて、モノを巡る人間の物語、記憶、経験を別の視角から探る ことができるかもしれない、と思った。

無名のデザイン

今週の日曜日に今回のレジデンスの最年少メンバーカイサンがジャカルタに帰るので、夜にカイサンの家族が夕食に招待してくれ、車を運転して山を降りる。

連れて行ってもらったSate Ayam (インドネシア風焼き鳥)の店先が面白いかった。この敷地は昼間は出店が並んでいる市場で、夜になるとこの焼き鳥屋が営業を始める。地元でも有名店とのこ と。出店スペースがキッチン、客席へと早変わりする。場所の使用に関しては市場の事務所と交渉、契約しているという。流動的で柔軟な空間って、建築のフォ ルムじゃなくて、こういう用途、機能の可変性 が人びとの暮らしに開かれていることを言うんじゃないだろうか。

夜の市場で見つけた椅子たちもとても素敵だった。誰も気にもとめられていない小さな木の椅子、竹のベンチ、低い腰掛け。そのどれもが僕には、デザインの宝の山のように見えてくる。それぞれのかたち、色に、道具としての時間が刻まれているのが見える。見た目は古汚く見えるかもしれないが、誰かがこの形を思い描いたときに生まれたデザインのエートスは常に生きているように思う。見た目に惑わされなければ、これらの無名の家具たちが作り出す空間、これらの椅子を通じて生まれる人と社会空間の相互交渉の痕跡が見えてくる。モノと人間の行為の<あいだ>に生まれる「生きられた空間」が、ここには無数に存在しているのだ。

 

壁が語り始めるとき

Taring Padiの創設メンバーでアーティストのUcupが、週末に市内で壁画を描いているので来なよ、というのでバイクで山から下りて来た。ジョグジャカルタの美術大学Institute Seni Indonesiaの近く。構内を通り抜けて行くと、ダンスや演劇、演奏の練習をしている学生たちがたくさんいていかにもアート系大学らしい。田んぼが広がる集落の入り口付近で、10人くらいの黒シャツの男達が壁画を描いている。Ucupは脚立に足をかけながら、壁に向かって筆を走らせている。壁を黄色に塗り、 その上から下絵を元に手際よくチョークで下書きし、黒ペンキで塗っている。冗談を言い合ったりしながらも、ときに皆が黙々と壁に向かい手を動かしている。「どうやってこの壁を見つけたの」とUcupに聞くと「これは今年3回目になる村の芸術祭のひとつなんだ。村のリーダーの許可をもらって描かせてもらっている。ここは美大に近いけれど周囲のコミュニティと大学との関係はまだ希薄だ。僕らはアートを大学の外に持ち出して繋げたいんだ。ここらへんには他にもたくさん壁画があるよ」と答える。

そうして小一時間皆の作業を眺めていると、2つの大きな男女の顔が壁から浮かび上がってきた。その両脇では若いメンバーたちが背景を描いている。左側には山、畑、森、右には地引き網漁をしている裸の男達の絵。そして中央には工場、都市の黒い影。産業と自然のはっきりと際立った対立。TaringPadiのチーフにはこの2つの異なる世界へのイメージが明確にある。自然と調和した農民の暮らしは単なるユートピアだと言えばそうだろう。けれどもそれは都市の、廃墟の壁に描かれた過去の情景であると共に、未来へのイメージでもある。産業/自然、都市/農村、、想像力の批判的弁証法の2つの項が緊張関係を孕みながら壁面に現れる。そして、大きな瞳をまっすぐに見開いた農民の男女の顔。私たちが壁画に相対するとき、同時にこの4つの眼に私たちは眼差しを投げ返される。「あなたはどちらの世界をつくるの?」この描きかけの壁画の女性の大くて黒い瞳を見ながら、僕はそう問われている気がした。

Since Ucup who is one of the original members of Taring Padi (a legendary woodblock printmaking collective in Jogjakarta ) told me that they would start making a mural painting in the city. I went down from the mountain to see their ongoing project. I enjoyed seeing the process of their grate works being realized on the wall.