民衆文化のテーゼ

ああ、香港のオキュパイの現場の一つ「Occupy MongKok」が今朝方警察によって強制排除されたというニュースが...ここオキュパイモンコックは、香港の友人達が多くか関わっていて、特に文化的 なアクションがたくさん生まれた場所でもある。路上インフォショップ、オキュパイ商店、コンサート、オキュパイテント小屋コンペ企画、路上鍋や卓球大会、 路上学習教室...これらの様々な自発的、創造的な草の根文化が警察の暴力によって破壊されていく。国家の本質と民衆文化は究極的には対立する。これは やっぱり文化研究の一つのテーゼなのだと思う。

日本ではより緩慢に、巧妙に取り締まられているけれども。

死者は泥人形となり、消された歴史を語る「映画:消えた絵-クメールルージュの真実」

福岡の映画館、KBCシネマで先週まで上映していたカンボジアのクメールルージュの虐殺をテーマにしたドキュメンタリー「消えた絵-クメールルージュの真実-」を観た。監督のリティ•パニュは、クメールルージュ政権下の強制移住/労働が家族を失い、タイに逃亡しフランスに移住して映画監督となった。

純粋な原始共産主義革命を夢想したポルポトにとって、都市と都市生活は資本主義的退廃の極北(絶対悪)だった。だからこそ、その痕跡を一切残さず、すべて をゼロにしようとしたのだろう。大勢の元都市生活者(新人民)たちが水田の泥のなかで飢えと過酷な労働、そして処刑によって死んでいくのも革命の必然的な プロセスだったと考えていたのかもしれない。

クメールルージュの「資本主義が廃絶され、誰もが平等で飢える事のない世界」というこの一見正しいと思われる<善>の言葉を暴力によって実現しよう とした時、言葉の内実が抜き取られ、イデオロギーとして形骸化し、思想の純化(善悪二元論で語る世界像)を引き起こし、現実世界を極度に単純化し、その純 化にそぐわない存在を抹殺していくという、想像に絶するおぞましい出来事が立て続けに現実化していった。

クメールルージュのプロパガンダ映像にある、止まない拍手は完全なる虚構を現実へとむりやりでっち上げたときに不可避の、そして唯一可能な身振りだ。革命 の成就という完璧なエンディングが実現したと明言した以上、このでっち上げられた革命的現実にはあらゆる矛盾を孕むものが存在してはならない。知識人も西 洋音楽も、都市のざわめきも、この現実に対するあらゆる類いの議論(もちろん民主カンプチアそのものについても)も革命後の世界には存在してはならない。 <矛盾は存在してはならない>という言表だけが、この虚構の革命を支える唯一の原理となる。映像に言葉はなく、拍手とスローガンで埋め尽くされる。

もちろん、その狂気に粛々と従った無数のカンボジアのアイヒマン(凡庸な悪、付け加えるとしたら自己保身のための狡猾さも)がいなければ、この革命の名の下に行われる残額さも実現し得ないのだが。

映画に登場する泥人形は死者が埋められた水田から採られたものだ。暗闇の中で殺されたものたちは、泥人形となって映像の光によって再び命を授かり、ポルポ ト以前のきらびやかな過去、そして強制収容所での労働と空腹と死の日々を演じる。無言のままで。死者たちは歴史を再演する。監督は失われたポルポト時代の 人々の映像を探し当てようとしたが、そこで見つかったものはすべてプロパガンダの映像でしかなかった。真の姿は記録されなかった。真の意味では過去の出来 事は再現できない。しかし、監督の記憶の中にある過去はあるイメージとして沈潜している。泥人形たちが監督の過去を再び演じることで、歴史の断片が、その 断片の光彩の中において浮かび上がる。一つの物語として。

 

「ジェントリフィケーションと報復都市」

大阪で行われた酒井さん、原口さんのトークイベント。

トークセッション 原口剛×酒井隆史
「大阪から考えるジェントリフィケーション 〜 都市は滅びるのか?」 ジュンク堂書店 難波店(2014.9.13 15:00 〜 17:00)

ジェントリフィケーション論の古典ニール•スミス「ジェントリフィケーションと報復都市」刊行記念のトークでもあったみたい。ネット上で読めるpdfでのレポートがありがたい。

リンク→ジェントリフィケーション/トークセッション

「繰り返しになりますが、ジェントリフィケーションとは何かを簡潔に要約するならば、まずひとつには資本主義固有のロジックであり、資本主義を延命させる ために、都心の労働者地区を開拓(パイオニア)していく過程であるということです。 もう一つには、富裕層、ミドルクラスによって貧しい労働者階級、移民の人たちが征服され、基本的に追い払われていくプロセスとして理解することがきわめて 重要なのです。

付け加えると、これはジェントリフィケーションという言葉そのものに含まれています。ルース・グラスが新しいプロセスを見つけ出した時に、これをジェント リフィケーションと名指したのはなぜか。「ジェントリ」がどういう人を指すかというと、「レデイス&ジェントルマン」の「ジェントルマン」ではあ りません。基本的には16〜17世紀のイングランドの土地所有者の階級です。彼らが自分たちの農地を囲い込んで資本主義的な経営をはじめ、そこで私的所有 が確立されていくわけです。その土地を囲い込んで、そこで暮らしていた農民を追い出していった階級の人々をジェントリといいます。

それをふまえてルース・グラスはジェントリフィケーションと名指した。それは今も昔も同じで、同じことが都心でも起きている。つまり豊かな人々が都心の労 働者階級のエリアを囲い込み、貧しい人々を追い出してしまうプロセスなんだという意味がこの言葉に込められています。ここがジェントリフィケーションとい う言葉を考える上で非常に重要だと僕は思ったんです。(原口剛)」

日本、韓国、香港 東アジア民衆芸術混交

香港のアートスペースWooferTenに今、版画家の廣川毅さんが訪問していて、オキュパイの光景を路上で版画にしているという投稿があったのでシェ ア。個人的には廣川さんは、東京の運動界隈で数回お会いしただけなのだけれども、今は韓国で民衆美術の系譜につらなる版画家、イ•ユニョプ氏のところで版 画を学んでいる。韓国で版画を学ぶ日本人の彼が、韓国の「民衆美術」の様式で香港オキュパイの光景を路上で版画にしているという光景に新しい東アジア民衆 美術の可能性を見る。アジア各都市の路上での、制度やシステムを介在しない直接/生の出会いの中においてこそ、民衆運動/芸術の混交的な創造性が生まれ る。アートで国際交流とか文化交流とか言うセリフはどこでも聞くけれど、本当に芸術や文化がアクチュアルな時代状況のただ中で出会い、相互に触発され、新しい様式が立ち上がる瞬間というものはそう多くない。それはその数少ない瞬間の一つだと思う。

香港オキュパイの路上で版画を彫る

香港オキュパイの路上で版画を彫る

韓国民衆美術の様式を思わせる版画。路上で皆が集まって議論をしている光景。

韓国民衆美術の様式を思わせる版画。路上で皆が集まって議論をしている光景。

 

 

釜山 「韓国-日本 共同制作プログラム Plan Co」

先日、釜山で行われている「韓国-日本 共同制作プログラム Plan Co」内のフォーラムに招待してもらい、韓国の大学の先生、新聞記者、作家の方々とトークをする機会を頂いた(僕以外全員が韓国語を話せる方々だったのですが、通訳の方の流暢な日本語に助けてもらいました)。このフォーラムでは、「噂」というテーマを基に話して行くものだった。

福岡と釜山の両都市の人々にお互いの国の噂について尋ねて回った映像作品を見ながら、お互いの国の人々の「噂」がどう社会通念のように流通しているのか、そして「噂」のポジティブな面、ネガティヴな面について各パネリストの方からコメントをもらうという形式でした。映像で面白かったのが韓国の人が日本に関して「毎年、土地が沈降していていつかは海に沈んでしまう」という噂をほとんどみんな知っているということ。僕は初めて耳にした。あと、独島(竹島)の領土問題。これは小学生くらいの子でもそう発言するシーンが多かった。日本から韓国に対する噂は、どちらかというとメディアを通じたイメージの反復(K-pop、美人が多い、化粧品)か、食事について。ちょっとぼんやりしている感じ。

韓国では過去(日本植民地時代)の歴史教育への関心が高いが、日本は過去の歴史教育についての関心が高くないように思うがどうか、と他のパネリストから聞かれる。あと、韓国の中国文学研究者の方が「噂には誰が語ったのかという語りの主体なしに流通していく」という発言を聞いて関東大震災時の朝鮮人虐殺での官憲流言を思い出す(「9月、東京の路上で」を読んでおけばよかった、と後悔先に立たず)。

そう、「噂」は、聞きたいものが流通するが、聞きたくなないものは流通しないか、隠される。例えば、文化や芸術の領域では良い意味での聞きたい噂、「ベルリンが面白い」「北京のパンクスがいま熱い」等々が広まりやすい気もする。が、その一方で、やはり「噂」とはネガティヴなものではないか、と思った。

噂は、基本的にその話しの対象となる他者やモノが不在(もしくは語られる側が語り、拒否、修正する権利をはぎ取られた)のままに、語る主体が語られる対象について一方的に語り続け、対象とされた側は、そのように語られた存在として規定され続ける状況の流通をも意味している。また、その社会で噂が盛んになるのは、その社会の情報流通の透明性と相関関係にあるという指摘もなるほどと思った。他者に対する悪意ある噂が、ヘイトスピーチに一変する危険性を常に孕んでいるのは、昨今の日本の状況を見れば明かだ。

映像の中でインタビューを受けていた日本のおじいさんは、福岡が戦後すぐに引き上げ港だった時代に日本と韓国両国に帰っていった人々や、大浜には戦後すぐ朝鮮の人々の自治区があった(知らなかった!!)らしく、その人たちについての聞き取りをしていて、噂というよりもオーラルヒストリーとしてとても面白かったし、「日本についての噂は何ですか」と聞かれて、おばあさんが植民地時代に強制的に学ばされた日本の歌をニコニコと歌っていたシーンも印象的だった。韓国のパネリストの方の「これらは、大文字の歴史(権力者の歴史)から排除された民衆史であり、韓国のおばあさんの過去の苦難と今楽しそうに日本語の歌を歌う姿をどう考えていくのか」という言葉が印象に残っている。

僕は相変わらず設定されたテーマの周りを軌道衛星のように勝手にしゃべっていただけなのですが、何人かの韓国の方から「面白い話が 聞けてよかった」と言ってもらい少しほっとする。今度は、福岡で釜山の人たちとトークをすることができればいいな、と思う。こうやって、お互いの誤解や妄 想をも共有していくことができれば、「噂」が単なる妄想や、誤解、もしくは、ちょっぴり笑える事実だったりすることがお互い簡単に理解できて「な〜んだ、 あれは単なる噂だったのか」と笑い合える。

僕 は、中国や韓国の友人たちとお互いの国のステレオタイプなイメージ(例、日本人=真面目だが陰険、中国人=カネ大好き、韓国人=怒りやすい)について話し て、皆で笑うのが好きだ。そのとき、皆それは単純化されたイメージでしかなく、世界は個人はもっと複雑なのだという理解がお互いの内にあることを知ってい る。ひそひそと話されていた「噂」を開けっぴろげにして、共通のジョークとして笑える時、国家という時空間よりももっと広い、世界の「現在性」を共に生き ているのだと知ることができると思う。

ドキュメンタリー「Grasp The Nettle」

2009年に滞在したロンドンのスクワットガーデン、キューエコビレッジ(Kew Eco village)のドキュメンタリー「Grasp The Nettle (困難に立ち向かう)」が去年完成して、公開されていたのを最近知った。そこに滞在した時に出会ったアナキストや活動家たちはボヘミアンの風貌も併せ持っていた素敵な人々だった。

空き地をスクワットし、テントを張り、賃労働と消費のサイクルとは別の暮らしを作ることが彼らの抵抗の方法で、それはイギリス資本主義勃興期に資本家や貴族による土地の私有化と闘ったDiggersから綿々く反資本主義の民衆史の流れを汲んでいる。

彼らのポートレイトをいつか撮りたいと思ってフィルムでの撮影を始めたけれど、すでにこのエコビレッジは存在していない。けれども、また第2、第3のエコビレッジはヨーロッパ各地に生まれていると思う。ヨーロッパへ再び行きたいと思う理由は、荘厳な石造りの建築でも西洋文化へのあこがれでもなく、産業資本主義社会の起源のようなこの場所で、再び大地と自分たちの生を直接的につなげようとする人々の試みが存在しているからだ。

エコビレッジ滞在時のメモはこちら

沖縄滞在記 2014.1.3

朝5時近くになって急に周囲がドタバタし始める。もう出発の準備をしているみたいだが、明け方まで寝付けずにいたので布団から出ないままでいる。みそ汁やご飯をよそったり、椅子を引いたり、寝ている僕の上をせわしなく飛び交ったり、車のエンジンが近づいたり、遠ざかったりする音がしばらく続いた後に再びトゥータン屋に静けさが戻る。朝にはN4ゲートへ訪問する。トディさんからコーヒを入れてもらい、リンゴもいただく。N4は外部から高江の座り込みに参加する人たちのための案内所になっているで、入れ替わり立ち替わり新しい訪問客がやってくる。

午後には空は急に曇りがちな天気へと代わり、強い雨が降り出す。昨日からの心身の不調か、頭に熱を持ちはじめトゥタン屋に戻り、布団を敷いて寝る。窓の外はしんしんと降る雨。こんな雨のなか自分は布団にくるまっているが、他の支援者は雨合羽を来てゲート前に立っているのだろうと思うと恥ずかしい気持ちになる。雨でも風でも台風の日であってもずっと座り込みは続いている。その継続されている時間の強度について、その強度を作り出す人々の行為の規律について考える。まるで、仕事の時間であるかのようにきっちりと朝5時には起きて、みんなで朝ご飯を作り、食べ、6時のミーティングに間に合うようにトゥータン屋を出る。ここには毎日の行為の積み重ねによって築層されてきたある自律的「規律」があるように思う。トゥータン屋とは、闘争が日常になり、日常が闘争になるこの不可分の領域を日頃から支える運動の社会インフラだ。外部の訪問者はまずここで受け入れられ、すでに座り込みに参加している人たちとの交流の中でこの闘争に関わるための不文の規範を身体化させていく。また食事や宿泊の場としてのトゥータン屋は、疲れや空腹を癒すと共に、<ゆんたく(語らい)> の場所として運動に関する議論や情報交換の場としても機能している。トゥータン屋は闘争を継続する身体を再生産させてゆくための場なのだ。

Chikaさんに薬をもらい3時間くらい睡眠をとる。夕方5時くらいに起きるが、雨は以前より強く断続的に降っている。トッコさんたちが帰ってきて、そのまま共同売店に今晩の食材を買いに行く。今日の昼のイノシシ鍋の残りのスープでカレーを作ることに。天馬さんに野菜をいためてもらい、最後は自分が味付けを調整。こってりしたカレーだが、ご飯とよく絡み合って旨いので、すこしだけ元気がでる。夜はメインゲートに向かう。先日よりも気温が上がっていてそこまで寒さに苦しめられずにに過ごせた。9時以降ゲートが閉まると車をゲート前に2台停車させ、その中で一晩中泊まり込んで監視活動を継続させる。座り込みを継続しているその淡々とした時間の経過そのものものが高江の現実なのだ、と実感した。

沖縄滞在記 2014.1.2

1/2

朝8時に起床。宮平さんの車が10時に到着するということで、先日東京から来たゆんたく高江の須乃瀬くんと9時50分くらいに宿を出る。車に荷物を載せて那覇を出発。途中で、W&Aのドライブスルーレストランに立ち寄る。ここはガソリンスタンド形式で車を停車させ、注文し、車内で食べるというシステムを採っている50年代車社会、アメリカ式ハンバーガーショップ。ポテトとコーヒーを買い、そのまま外のベンチで食べる。島豆腐を近くのスーパーで購入。高速道に乗り、一路名護へ。高速を降りると道の左側には、緑色やうす水色のグラデーション名護の海が広がっている。名護のスーパーを2軒回って食材を購入。高江での自炊料理を頼まれ、地中海風魚介料理の材料を探し、沖縄産のクチナシ、イカ。アサリとムール貝を買う。

その後に、屋我の海に立ち寄る。白い砂浜と美しい遠浅の海の青。車を停めて砂浜に出る。引き潮で向こうの島に渡る砂の小道ができているので裸足で渡ってみる。珊瑚のくだけた砂が足にちくちくささる。県道331を越えると一気に山の風景が変貌する。山は深く、延々と向こうまで尾根が続いている。木々も幹が白く、その上部はブロッコリーのように横に広がっている。南部とはまた異なる植生が広がる。平良湾を右手に眺めつつ橋を渡り、県道70号線を上ってゆく。高江共同売店を通り過ぎ、座り込み参加者が宿泊するトゥータンヤーに到着する。水色のプレハブの一軒家で、中にはキッチン、トイレ、バス、男性用の雑魚寝できる居間。そして離れとして事務所、女性用の宿泊所が設けられていた。荷物を置いて車に戻り、N4ゲートのテントを越えて、セントラルゲート前の座り込み現場に到着する。県道の反対側には横断幕が並べられ、ゲートの両脇には座り込みのためのテントが設置され十数名の人たちが白いプラスチックの椅子をゲート前のオレンジの線の前に並べ、座りながら談笑している。右側のフェンス前には3人の修行僧が座って念仏を唱えている。左側のテント前にはコンロ、火鉢を置いて、お茶やお菓子が用意されている。天気は快晴。ゲートの向こうには米軍の監視小屋があり、警備員が時折双眼鏡でこちらを覗いている。その場の雰囲気は拍子抜けするほどおおらかだ。でも、この現場で何度も何度も激しいヘリパット建設運動が6年以上も行われてきていた現場なのだ。

薄い紫のパーカに白い帽子をかぶったトッコさんが忙しそうに行き来をしている。「トッコさん!」と声をかけると、向こうも気がついて挨拶。椅子をさっそく出してもらい、オレンジのラインの前に置いて座る。どうやらオレンジのラインを越えるとダメだそうだ。韓国から来たイルカ先生とも挨拶する。イルカ先生は両方の鼻から鼻毛が気になってしまったが、とても柔和な笑顔を向けて挨拶をする。イルカ先生はおどけてオレンジのラインの上を平行棒のように歩いてゆく。もう高江に来て50日以上になるという、毎日座り込みに参加していて、トゥータンヤかたメインゲートまで毎日2往復しているという。東京、岐阜、神奈川、北海道と全国から座り込みにやって来ていた。夕暮れまでゲート前の椅子に座ってトッコさんの話を聞く。今日は正月休みだからほとんど業者の出入りはないが、今月2月までが工期でまだ2割しか完成していないので、仕事明けに大量に入るだろう業者の車を監視して、ゲート内に入れないようにするための座り込みをしている。住民だけでは圧倒的に人手不足であるが、それでも毎晩車中泊をしながら24時間態勢で座り込みを継続しているのだと言う。ここは常に毎日の生活そのものが闘いの現場なのだ。それぞれのチェックポイントで業者の車の確認作業を行う。

日が落ちる頃に、一度メインゲートを離れ石原岳さんの家に行く。なんでもおせちをみんなに振る舞ってくれるとのこと。本人は風邪ぎみの様子だが、家に上げてくれ、奥さんのトディさんの手作りのおせちをいただく。柏屋のスタッフとして働いていた子が石原岳さんの長男だと知って驚く。漆の平皿にきれいに少しずつ盛りつけられた御節をごちそうになる。このとき、沖縄には御節料理がない、ということを始めてしる。旧正月の料理は新正月への移行の中で少しずつ薄れていったのかもしれないと石原さんが話していた。その後再び、メインゲート前に車で向かう。ゲートの前には10人ほどが椅子に座り、火鉢の近くで暖をとっている。行きがけに頼まれて購入したノリがないということで、一騒動あったが探しても見つからないので、そのまま座り込みに参加する。正月ということもあり、沖縄だけでなく、東京、神奈川、岐阜、北海道と各地から応援に駆けつけている。住民の会のメンバーでもあるイサさんの挨拶が心に残る。

「このゲート前の座り込みは小さな空間かもしれないけれど、この座り込みを始めたころは基地に向かってカメラを向けるだけでも警備員が飛び出してきた。でも今はこのように基地の前で車座になり、火を焚いて出入りする車両をチェックしている。この小さな空間は自分たちが運動の中で勝ちとってきた空間なんだ。毎日の運動小さな積み重ねがこのような抵抗を可能にしてきたんだ。抵抗も大事だが、このような場を作り、こうやってお互いが出会い、ゆんたく(話し合う)することも大事なんだ」

正月なので9時には座り込みを引き上げる。トゥータン屋に帰る途中で、新川ダムの道にそれて車を出てから夜空を見上げる。一本道に沿って植えられた街路樹の黒い緞帳に挟まれて、空には滝となり、飛び散った星々のしぶきが頭上から降り注ぐ。宇宙のただ中に浮かんでいるような感覚。

キッチンでは6人くらいがまだ話をしていたので、買って来た食材で3品程度を作る。作ったのは、イカとアスパラのオリーブオイル炒め、ムール貝のワイン蒸し、クチナシのトマト/白ワイン煮の3品。話は運動をめぐるウチナンチュとヤマトの人間の立場と意識の違いについて遅くまで議論する。

沖縄滞在記 2014.1.1

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屋上に出ると空は雲一つない快晴。深い青の天球から注ぐ暖かな光が街のコンクリートを照らす。風も止んでいる。先日の大晦日とはうって変わって人気のない公設市場の朝。静けさだけが取り残されたような元日の朝。先日一緒に初詣に出た大阪人から久高島のことを聞く。斎場御嶽と共に久高島まで回れるかどうか時間的にはわからなかったが、とりあえず沖縄に来て数日は気分もうつうつとしていたので、さすがに太陽の光を浴び、少なくとも斎場御嶽まで行こうと思い開南のバス停まで向かう。商店街はほとんどがシャッターが閉まっていて、人通りもなく年老いた気道の中のようにぽっかりとしている。開南のバス停は商店街をのぼりきったところの小さな丘の上にある。途中で近所のゴーヤバーガーを買い、昼ご飯代わりに食べつつ一時間以上バスを待つ。

駐車場の角にぽつんと立つおじさん。猫を追いかけるように見つめるおじさん。時間だけが静かに過ぎてゆく。あきらめて首里城あたりに行くバスに乗ろうかと思った矢先に38番のバスが来るので、吸い込まれるように乗り込む。20年前の内装のままのようなバスの一番後ろのシートに座る。暖かい日差しが眠気を誘いうつらうつら。窓の外は徐々に市街を抜けて古い民家もちらほら、白い屋根の上には赤茶色のシーサーが載っている。40分くらい走って、御嶽の直前でビーチに停車するというので、散歩がてらに降りてみる。坂道を下ると偶然にも久高島行きのフェリー乗り場が見えてくる。時刻を調べると14:00発。帰路の最終便は16:30。2時間だけではあるがこんな天気はめったにないので、えいやっと往復切符を購入する。小さなフェリーの二階後部席の手すりに寄りかかる。海は思いのほか澄んでいて、小魚の銀の群れがぴかりぴかりと輝いてはその姿を変えて行く。

20分くらい船は南東に進むと、水面からわずかばかり浮き上がったような低く細長い島が見えてくる。海と空の境目に小魚の腹ばかりの陸の裂け目が現れる。港へと入る時に砂浜の上に黄色いテントがぽつりと貼られてあるのが見える。青、緑、黄色の点描画。港を降りると左手に「う」の字にカーブした坂道とその上にコンクリートの休憩小屋、ベンチにはおじいさんがひなたぼっこをしている。子供たちが丘のてっぺんで遊んでいる。坂道を上り、食堂兼貸自転車屋を通り過ぎると、低いカーブを描いた石垣で形作られた路地へと入っていく。所々崩れかけた石垣の上には珍しい南国の植物が植えられている。塀の上の植物都市。ところどころにブーケンビリアの赤い花のついた緑の生け垣がガラス細工のようにピカリピカリと輝いている。コンクリート製の大きな円筒の給水塔は無音のままデ•キリコの絵画の中のように立ち尽くしている。全部で20軒くらいの小さな集落を抜けると、そこからは島の真ん中をアスファルトの一本道が延々と伸びている。両側にはソテツやヤシ、そして黄土色の枝木が互いにあばら骨のように互いに絡み合っている。風が吹く音の他には何も聞こえない。黄色く輝く太陽の光は島と空の水平線の境界を淡く白く照らし、コンクリートのアスファルトには自分の黒い陰がくっきりと浮かび上がる。じわりと暑くナイロンのジャケットを脱ぐ。自転車に乗った観光客たちが次々と追い抜いていく。

途中で、フボー御嶽の看板を見つけ右手に曲がると、熱帯植物の回廊がゆったりとしたカーブを描いている。奥に進むとさらに一層しん、とした重い空気の層に入り込む。Uの字のカーブの一番下に御嶽の入り口が見える。細長い珊瑚岩が「敷居」となり、よそ者の侵入を拒む結界を作り出している。つたや木の根っこが重なり奥に続く小道へと誘う。右からは光が漏れ開けた空間がこの向こうに存在することを予感させる。
岡本太郎がこのフボー御嶽の写真や昔の風葬「後生(グソー)」にふされた遺体を掲載したことで、一躍有名になってしまい、観光客、ヒッピーたちが大挙して押し寄せてきたという話を思い出す。また元の道に戻ってゆく。

ため池を越えたあたりにからは舗装されていない赤土むき出しの道が島の北端まで続いている。両側には久高島カーベルの植栽が続いている。昔から島人がこの島の植栽に手をかけてきたという証拠だそうだ。ウコンイソマツ、グンバイヒルガオ、モンバノキ、アダン、アカテツ、クロツグ等様々の植物が育っている。島の北端は神話上の琉球の創世神、アマミキヨが降り立った地と呼ばれている。ノロ(祝女)やイザイホーの儀礼。そして琉球時代からの土地の共有制度。この島をめぐる民俗学的好奇心がわき起こるも、同時にそれがニューエイジ思想やヒッピーカルチャーによって過大に神聖視されたことも考えると、あまり中途半端な興味関心だけで踏み込む領域ではないようにも思えた。そっとしておくほうがよいのだ、と。帰りがけにもう一度フボー御嶽に立ちよる。風と木々や葉がさわさわとすれる音と、小動物が逃げ込むがさごそという音の他に音は無い。自分以外の人間の姿はそこになく、世界と直接的に向かい合う。人間なしにも世界は存在する、すなわちこの世は人間なしに始まり、人間なしに終わるのだというその厳粛な真実を見たような気持ちになる。

全長8キロの島を2時間で往復し、急いで最終便のフェリーに乗り込む。5時には船着き場に到着。斎場御嶽には5時半までの入場だったので、急いで入場券を購入して駆け足で入り込む。すでにあたりは暗く、うすいピンクに照らされていた海は徐々に深い藍色を帯びてくる。駆け足で斎場御嶽を巡る。6時に斎場御嶽を出るがちょうど市内へ戻るバスを逃し1時間半を野外の暗闇の中で待つ。看板の裏側に座り、風よけがわりにする。7時20分のバスにようやく飛び乗り、ほっとしつつ体を背もたれに寄せつつ那覇まで戻る。

沖縄滞在記 2013.12.28

12/28

那覇市内のジュンク堂で作家、活動家である知念ウシさんの新著「シランフーナ(知らんぷり)の暴力」の出版記念トークに連れて行ってもらう。恥ずかしい話だけれど、知念さんの活動や著作を知らないままトークを聞きに行った。時々使われるウチナーグチは友人の宮平さんが口頭で訳して教えてくれた。知念さんから発せられる言葉(日本語)は、植民地宗主国としてのヤマト(日本)の姿をくっきりと浮かび上がらせ、ウチナンチュ(沖縄人)とヤマトンチュ(日本人)の間の構造的不平等を鋭く、かつ容赦なくえぐりだす。自分が意識する/しないにかかわらずヤマトンチュ(植民地主義者としての日本人)に出自を持つ人間であることをヒリヒリと自覚せずにはいられなかったし、その場から身を隠したいたいとも思った。ヤマトの植民地的精神は、沖縄が持っていた固有の価値の否定と、ヤマト的な価値観のすり込みを同時に行ってきたと知念さんは指摘する。この植民地主義的関係と価値の否定/内面化によってかき消されているのは、今現在においては「日本人が受け入れたアメリカの基地を沖縄に押し付けるな」という沖縄の人々の声であり、逆に増長させているのは、それを「基地に依存している沖縄経済」や「基地のカネを当てにしている」そして「基地=沖縄の内部問題」へとすり替えるヤマトの家父長的かつ欺瞞的な「沖縄の他者化」である。

県外基地移設という主張がラディカルなのは、この主張が鉄到底美、基地問題そのものが日米安保と日米地位協定を結んだヤマトの政府、そしてそのヤマトの人間たちの問題(つまり本土に住む自分たち自身の問題)であるということをはっきりヤマトに住む人間(日本人)に突きつけるからだ。日本人が沖縄の基地問題に無関心、シランフーナ(知らんぷり)であり続けることは植民地差別への積極的な加担だとはっきりとここでは語られている。このような語りを東京や福岡で聞く場合、それはオーディエンスの大多数が日本人であるが故に半ばシンパシーと包摂がないまぜになったような受容をされてしまうが、ここ那覇ではそれはある切実な実感を伴って共有されていく歴史的磁場が存在している。また、「基地をなくすようにがんばりましょう」と沖縄の人たちに語る本土から来た平和運動の人々の言葉の中にも「基地」を沖縄だけに押し付けようとする心性が透けてみえると語る人もいた。

日本人であるということはポジショニング(立ち位置)の水準において、植民地の宗主国として沖縄の人々に対する不均衡かつ抑圧的な関係の押しつけによって成り立っているのだと日本語で整然と突きつけられることで、自明で不問のはずであった「国内の旅として沖縄に行く」ということが、「日本人である自分」が「歴史的従属関係の関係」の延長線上にあって「琉球」に足を踏み入れているのだと気づかされた。たしかに日本人と沖縄人のポジショニングの問題をある意味で決定的な断絶点として描く知念さんの言葉からは、両者の連帯や相互理解への希望は見いだせないし、そこにある種の共約不可能性のシニシズムも感じずにはいられない。しかし、この断絶を引き起こしたのは間違いなく日本人の方なのだ。これまでただ「沖縄」問題と思って外部化し、不問にしていた自分に多くの問いが一気に還流し、まだぐるぐると頭が揺れている。日本語の発話を通じて、このように日本語そのものの権力性を内的に突き崩そうとする強い言葉に出会ったのは始めてかもしれない。それは、本土から来た自分を繰り返し執拗に問いに付す言葉だったのだ。

 

言う事を聞かない技術

レイバーネットより転載

英国で新しい左派政党、レフトユニティ創党

新しい労働者の階級政治予告を強調...来年3月、党代表団を結成

『レフトユニティ全国協力委員会のSalman Shaheenは「保守党は最も貧しい人々 との全面的な階級戦争を始めたが、労働党はこれに何もしていない」と創党の 理由を明らかにした。

彼らはまた「われわれは社会主義者だ。われわれの目標は資本主義を終わらせる ことだからだ。われわれはフェミニストだ。私たちの社会的展望はジェンダー に対する抑圧と排除のない社会に向かうからだ。われわれは生態主義者だ。 われわれはあらゆる形態の差別に反対する」とし、社会主義、女性、生態議題に 対する指向を明確にしている。』

英国で映画監督ケン•ローチらの呼びかけによって新しい左派政党が設立した。全面的な階級戦争は国内でも自民党の意図された強権政治によってこの数ヶ月で明確になってきたが、ヨーロッパでも同じ流れを組んでいる。そう、はっきり認識しなければならないことは今現在が「地球規模の階級戦争の時代」なのだということだ。ただし、放射能戦争下の極東の孤島に生きる僕たちは党的形態という集合ではなく、分離と分散、逃亡からスタートし、権力を下支えしているものからの離脱を自らの自律へと転化させていく実践が階級戦争を戦う基点なのではないか、と考えている。皆、人の言う事を聞きすぎる。人の言う事(誰かはっきりせずに、単に「人」や「みんな」で語られる言葉)とは、たいがいが統治権力によって産出され倫理、道徳の衣をまとってメディアや教育を介して流通しているイデオロギーでしかない(労働せよ、納税せよ、社会規範を守れ、等々)。だから、言う事を聞かないというのは、直接的に拒否するよりも効果的な技術だ(直接的な拒否は暴力で封じられる)。のらりくらり、だらだらしつつ、松本哉の「人の(権力の)いうことを聞かない技術」を草の根から広げていこう。

離脱していくこと

自民党による「特定機密保護法案」のなりふりかまわない強行採決が進む中で、建前上だったのかもしれないが議会制民主主義国家としての日本が壊れてく瞬間(自民党政府、官僚による国民の諸権利へのテロ行為)をまざまざと目の当たりにしている思いだ。放射能汚染も抱え、自民党と官僚統治の全体主義化、そしてかつて戦前、戦中のように住民同士の相互監視、密告の歴史的土壌があるこの国家に自浄化能力はない。この国の歴史を少しでも振り返るとそれはよく見えてくるかもしれない。

 

琉球朝日放送報道部「特定機密保護法案 沖縄への影響を考える」→ http://www.qab.co.jp/news/2013120448174.html

 

沖縄戦の研究する石原教授は、今回の法案に強く反対する一人です。それは、沖縄の住民がスパイだと虐殺される根拠になった法律「軍機保護法」をなぞる内容だからです。

石原「軍機保護法を下敷きにしたと思われる秘密保護法が制定されようとしているのは沖縄にとっては本当に沖縄戦再来の前夜。」

「軍機保護法」。明治32年に交付された、軍の機密を犯す者を罰する法律で、日中戦争さなかの昭和12年に改正された時には「外国のために行動する者に漏洩したら死刑」と極刑になります。沖縄戦の住民虐殺の根拠になったのは、この改訂版です。

石原「軍民雑居で、陣地作りに総動員されていったということで、軍人同様軍事機密を知ってしまった。だから、敵に捕まる前に死んでもらう。」

「生きて虜囚の辱めを受けず」という精神論は表向きで、住民が捕虜になって機密が漏れるよりはスパイ容疑で処刑する」か、「自決」に追い込む。軍の機密を知る住民は不都合な存在とする「軍機保護法」が生んだ悲劇でした。

 

「特定機密保護法案」は今すぐではないにしろ近い将来にこの社会の精神的統制と監視-ファシズム化の典拠となるだけでなく、国民に対する暴力の組織的運用の基盤になるのではないか。現に今の安倍政権中枢から聞こえる、「デモ=テロ」発言はすでにこの法案を何故自民党が押し通そうとしているかを十分に語っている。自分たちに異を唱える国民をテロリストとして処罰できるようにするためだ。そして、沖縄戦での日本軍による沖縄諸島住民への集団自決の強要が、「軍機保護法」という明治32年に交付された軍事機密を漏洩した軍関係者への処罰を目的とした法の拡大解釈が行き着く果てであったことを知れば、政府にとって国民とは「国家の秘密の保持」の名の下にいとも簡単に処分できる存在と見なしていたことは明らかだ。

確かに東アジアの抑圧的統治体系はどこも救いようのないほど愚かで残虐だ。でも、どこの国でも少なくない人々が抵抗、抗議の声上げ、戦っていたりする。国境を越えて連帯するということは、そのような人々と共にそれらの国家を離脱する実践的方法論を練り上げることだと思う。

アマゾンに住む先住民の人々は、かつて中南米アメリカにあった諸帝国(インカ、アステカ等々)から自発的に離脱した人々の政治的集団だったことをフランスの人類学者ピエール•クラストルらの仕事は明らかにした。このような「離脱」の抵抗と実践がこのDV的な国家と国民の隠れた相互依存関係(もちろん、国家や官僚制度とは基本的に宿主たる国民へ寄生虫的に依存してるという大前提の上での話だが)をご破算にし、望むべき/来るべき人間社会の小宇宙を今、生ある時間の中で作り出すことができるのではないか。議会制民主主義と官僚制国家システムが自ら暴走して、さらに多くの人々の犠牲を求めようとしている今、私たちはそうそうに国家と官僚を見捨て、自分たちの社会実験を一から始める時期にさしかかっているように思う。

国家と官僚制度は自ら引いた国境をまたぐことはできない。官僚的組織内では自分の考えに基づき発言したり行動したりもできない。思考できず、移動もできない組織体が国家と官僚機構だ。だからこそ道連れを、生け贄を求める。私たちはちっぽけながらも自分で考え、自分で行動できる。分子状に散らばり、国境も越え、別の場所の人々と再結合していく(同じような動線を描くグローバル資本とどう向き合うのかは新たな課題だが)。この個々の自律的思考と行動の様々な様式を世界のあらゆる場所で作り出すこと、そこに創造性を賭け行動していくこと。これはあと1.2年という時間との勝負かもしれない。

孤立すること

「3.12の思想」の矢部史郎さんのブログ「原子力都市と海賊」の投稿の中の一節にハッとさせられた。

以下引用

『そもそもアートが人々に教えるのは、「みんながひとつになる」みたいな学校くさい話ではない。アートが教えるのは、「誰もがひとりになることができる」という孤立の技法である。人々がアーティストに敬意を示すのは、彼がただひとりの者として力を表現するからだ。いまアーティストが言うべきは、「みんなひとつになろうよ」ではなく、「たったひとりになれ」だ。孤立することは無力になることだというのは、学校が教える迷信だ。現実はその反対に動いている。孤立は力の源泉である。』

3.12の東京電力福島原子力発電所の過酷事故の後、私たちは政府に、東電を含む原子力資本主義によって被爆させられ、核汚染の世界のただ中に破棄され続けてきた。あの日、日本人という単一のアイデンティティと日本社会という巨大な想像上の村落共同体から不可避的に身を引きはがされ、「日本人でない者」になること、日本社会から逸脱してゆく事態に直面したのだ。この決定的な状況の変化を直視した人々は、これまでの社会的諸関係を一度ご破算にしたところで、「つなみでんでんこ」のようにそれぞれがおのおのの方向にてんでバラバラ、分子状に散らばり(あるいは原子的孤独を引き受けつつ)「避難民」へと生成変化していった。

ここには一度、これまでの社会的諸関係から切り離されるという断絶の経験がいやおうなしに引き受けることが要請される。そして、この断絶から生まれる「孤独/たったひとりになること」にこそ、既存の社会とそれを支えて来た諸価値の崩壊の中に、積極的な別の生の再組織化の契機、つまり放射能戦時下での生の様態の集団的再創造が可能性として立ち現れてくる。

私たちの生の再組織化の可能性は、この「たったひとりになれ」という声を本当に個々人が受け止めきれるのかどうかにある。たった一人になること、崩壊してゆく国家、社会あるいは家庭までをも見捨て、逃げ去ること。それは卑怯や臆病の技ではなく、危機の中で発せられる個々の生の声に個々が正直であるかどうかにかかっている。だからこそ既存の権力構造は大丈夫、元通りに戻ろう、一つになろうという集団催眠の言語を多用する。

アートもまたそのように動員されうる。復興の名の下に人集めのプロパガンダとして、作り手の意図を越えて(というかそのような批判的意識が皆無のまま利用されるかたちで)「何も無かった」という集団催眠的な効果を求められている。孤立、孤独、断絶の中から思考され、実践されてゆくもの。それは今の現実の動きと同期している。周囲の理解や共感を得ないまま黙々と行われている文化的、社会的諸実践の中に創造の芽が胚胎されている。それは、孤独のただ中に飛び込む、避難/移住を通じた剥奪の感覚に身をさらすことで初めて見えてくるはずだ。

一地方都市、福岡での孤立を、東京とは別の方法で創造の力を養う契機へと転換させなければならない。

 

 

Marjinal:共に生きること=PUNK

今月5日に福岡のライブハウス4次元で、インドネシアの首都、ジャカルタで活動するパンクグループ「The Marjinal」のドキュメンタリー【マージナル=ジャカルタ・パンク Jakarta, Where PUNK Lives - MARJINAL】上映会が開かれた。反転地のサノさん、Shesaysdistroのマサコさんの企画で、監督の中西あかねさんとジョグジャカルタから来日中のマージナルメンバー、マイクが来福するというまたとない機会を作ってくれた。

ドキュメンタリー自体は現在も撮影中であり、まだ完成ではないそうだが、それでもこの映画を観た時の熱量に圧倒された。なによりインドネシアの過酷な社会状況の中で奇跡のような音楽/共同体が存在していて、そこで仲間や元ストリートチルドレンの子供たちと一緒に助け合いながら暮らして/生きて/芸術を作り出している姿がまるで彫刻刀で掘られた木版画のように映像に刻み込まれていた。

ギリギリの経済状況の中で、共同生活を通して生きる術を学び、音楽によって不平等な社会システムへの怒りを表現し、互いに助け合い生き延びてゆく。このドキュメンタリーは、そこで語られているものよりも、彼らの行為そのものにレンズを向けることでPUNKの精神を映し出そうとしている。社会の不正義に向けて怒りの一撃を、そして自分たちの生活にむけて放つ自律と平等の精神を体現するリリックと音、リズム。そして同時に、モノ、技術、知識何でも分け与えてしまう彼らの態度そのものがPUNKの精神だ。

上映後のトークのQ&Aで、ある人が「マージナルの音楽は、パンクらしくないのでは」と質問したとたん、後ろから酔っぱらったがなり声で「何いっとるとか!これがパンクやろうもん!」と一人のパンクスが叫んだ。ひどく酔っぱらっていて結構めんどくさそうな人物だったが(笑)、少なくとも彼のその台詞だけは納得した。PUNKとは、音楽の形式ではない。PUNKが「不安定な社会状況の中で、人間の声を通じて、怒り、喜びを共有すること、そして仲間と共に生きること、そのために戦う覚悟を持つ」という倫理的態度であることはこの映画を観た人間であればひしひしと伝わってきたはずだ。

パンフレットの裏にマイクの言葉がこう引用されてあった。

「バンドはツールに過ぎない。自由を獲得するため。この国を変えるため、革命を起こすために僕たちにはやるべきことがある。守るべき友人がいる。だからこれだけ長い間、目標を見失わずに活動を続けていけるんだ。」

監督:中西あかねさんのHP →http://www.ayumi-nakanishi.com
 

 

肉体連結の感

新宿のInfoShop「IRA」で購入した「大正アナキスト覚え書き」の中におさめられていた堺利彦の短い一文が目に留まった。大正12年9月1日の関東大震災の後、陸軍によって大杉栄が虐殺された時のことを回顧したもので、仲間や大杉が殺されたという報を獄中で受け取るやいなや「いきなり後ろから頭を3つ4つ、樫の棍棒か何かで続けざまにどやしつけられたような打撃を感じた」と書いている。

そしてこれを堺は「肉体連結の感」と言い表している。それは「我々は皆互ひに、直接あるいは間接に連結した肉体だと考へること」であり、仲間がやられたということは「私の肉体の一部がやられた」のと同じ感覚だというのだ。

このような「肉体連結」の感覚の共有が「運動」を「運動」たらしめていいるものではないだろうか、ふと思うようになった。広義の主義主張、立場は必ずしも同一ではなかった大杉と堺の間に、このような共有された身体と感覚が生みだされ、それは他の仲間にも分有されていたという点に目を向けたい。

なぜならここまでとは言わないが、やはりここ数年、自分と自分が出会ったアジアの友人たちとの間で漠然と、おぼろげながら何かを「共有」しているという感覚が生まれてきたからだ。そしてそこにこそグローバル資本主義と抗するかたちで、国境、国家、人種、性差の分断線を乗り越えて地球民衆として「共通のもの(コモン)」を取り戻す術があるように思えてならない。

ここではまだそれが何なのかははっきりと書く事はできない。しかし最近、素人の乱の松本さんとよく話す「マヌケ」という言葉が、その「何かしらを共有した」心地をおぼろげながらも核心的に言い表しているように思う。「マヌケ」についてさらに考えてみたいと思っている。

東京滞在回想 2013.10.7~13

東京から福岡に帰ってきました。6日だけの滞在だったのに、1ヶ月くらい滞在していたかのような密度だった気がする。

本当にたくさんの新しい人たち、そして界隈のみんなに出会えて話ができたし、その出会いと対話がまた新しい東京/世界地図を作り上げているような感覚が鮮明にあった。そして何よりも人と人との間に「道」ができる感覚がよりリアルな実感を伴ってきているようだった(大きな独り勘違いかもしれんが..)

もう人間の生の声からしか自分が本当に進みたい道や世界に出会わないような気がする。ある意味、Google的バーチャル/グローバル検索機械の世界から離脱していくような、人間の声の道に降りて行く感覚。

聴覚と触覚の世界よ、こんにちは。

メガロポリス東京には親しい部族が住む村が点在している。村の輪郭を形作る人間庭園(Human garden)は、恐ろしく込み入ったかつ繊細なグラデーションを描いている。この庭園には遊歩道は存在していない、そのかわりに飛び石のように点在する声の道がある。その声を聴きながらさらに歩こう、と思う。

Link→【アナログラジオ素人の乱 FM88.0MHz】2013年11月12日放送分